声の医学ガイド04 – ボイストレーニングとは何か

現代は、ボイストレーニングといわれるものが巷間に溢れています。診療中に、どのボイストレーニングが良いのか質問をうけることも度々です。ボイストレーニングには様々な流派のようなものがあり、各流派によって、発声時に意識するポイントや、発声スタイルを分類する枠組み、時には理想とする発声自体に違いがあります。それらにはそれぞれの考え方と根拠が示され、どれを信じていいのかわからないこともあるでしょう。
良い発声とは何かを考える際、私たちは芸術的な観点に加えて、医学的な観点も重視します。すなわち、医学的なトラブルを引き起こす可能性が低い発声を「良い発声」と位置付けています。この項では、これまでの臨床経験と医学的知見から考える、良い発声とボイストレーニングについて、医学的な観点からの考えを述べようと思います。
声の3要素とボイトレ
すでに述べたように、発声の機序は、呼気・声帯・共鳴腔の3要素に分けて考えると、システムとして理解しやすくなります。この3つのうち、医学的なトラブルが生じる頻度が圧倒的に高いのは声帯です。それは、声帯に自覚できる感覚(体性感覚)がないという神経学的性質に原因があります。まず、声帯には痛覚をはじめとする表在感覚がありません。したがって、無理な発声をして声帯の粘膜に炎症が生じて多少声がかすれても、皮膚のように痛さを感じることがないため、そのまま無理をし続ける傾向があります。その結果、不可逆的な病変に至ってしまうのです。また、声帯の筋肉の緊張状態を感知する固有感覚は、反射的調節に用いられるだけで体性感覚として意識することができません。したがって、自らが思うような発声からずれた発声をしていても、音としての違いはわかっても、声帯の緊張度や厚み、開閉度を自らコントロールして合わせるということが、根本的にできません。その結果、PVIのような症状が固定化していくのだと考えられます。
それでは、私たちはどのようにして声帯のコントロールをし得るのでしょうか。それには、3要素のうちの声帯以外、呼気と声道の調節が必要になります。声帯と異なり、呼吸筋や声道の筋肉(外喉頭筋、咽頭の収縮筋、舌や軟口蓋など口腔の筋肉)には、手指ほどの繊細さはないにせよ体性感覚があり、動きそのものの随意的コントロールが可能です。それらを用いて、間接的に声帯のコントロールを行うのです。
肺から始まる空気の通り道を気道といいますが、気道は声帯を挟んで気管側の下気道と咽頭口腔側の上気道に分けられます。当然ですが、下気道から上気道に向かう空気の流れにより、声帯は振動します。そして当然ですが、声帯振動の安定性は、この空気の流れの影響を強く受けます。流れを最適化することにより、声帯は余分な力を加えることなしに、スムーズな振動を連続的に継続し得ることが知られています。これを声帯の自励運動と言います。
したがって、良い発声のために私たちが可能な意識と身体操作とは、呼気と声道の調節によって声帯の自励運動を促すこと、と定義できます。そして、自励運動が安定して生じる発声では、声帯の筋肉の筋紡錘はノイズのない安定した固有感覚情報を発するため、感覚フィードバック調節が安定し、錐体外路系の不随意的調節も不調に陥ることがないということになります。私たちは、このことがボイストレーニングの本質だと考えています。
すなわち、ボイストレーニングで意識して動作すべき部位は、呼吸筋と声道の筋肉、さらにはその根本としての姿勢であり、内喉頭筋ではありません。その具体的な内容はここでは触れませんが、これら気道の操作、例えば姿勢や舌のポジション一つで共鳴はもちろんのこと声帯の閉鎖度も変化し、声の改善を劇的に導くことがボイストレーニングの真骨頂だと考えます。
ジャンル特異的な発声や声区の獲得
上記のことは、ジャンルや声区によらず、普遍的物理的な真理です。
一方で、求められる声の共鳴のスタイルおよびそのベースとなる声区には、ジャンルによって何を良いとするかの違いがあり、さらに言えば流派による違い、突き詰めると個人差があります。求める声のスタイルができるように練習することは、随意的なポジションの追求です。しかし、ポジション獲得の際に声帯の筋肉の細分化された内容に細かくこだわるのは、声帯の筋肉に体性感覚がない以上、直接的にコントロールしようがなく、全く意味がないと考えられます。新しいポジションを獲得する際に行われているのは、聴覚情報に基づいた調整に他なりません。
しかし、その際に、その新しいスタイルでの発声を安定させるのは錐体外路による不随意的なフィードバック調節であり、その調整機構が無理なく働くには、呼気と姿勢と声道を調節して、声帯の自励運動を促進することが必要です。
トランジョンと真のレガートの重要性
上記の内容は単音の発声の時にも当てはまることであり、単音の発声はボイストレーニングの基本ですが、それは入り口に過ぎません。実際の歌唱には歌詞とメロディーの要素が加わり、これらが声帯の安定性を乱す要因となります。そのため、構音動作と音程変化を伴いながら声帯自励運動の安定性を保つことが課題となります。
その際、音を一つ一つ切って出す非レガートは、音声の安定性を乱します。これは、各音に応じて気道条件と声帯条件を一から設定し直す必要があるためです。特に本質的に音が切れやすい日本語の楽曲では、近年のポピュラー音楽のように音高変化が速くなると、不随意的調節が困難になりPVIの原因となりうると考えられます。
声帯の閉鎖度をスムーズに調節するには、個々の音に加え、音と音の移行(トランジョン)に注意を向ける必要があります。音は明瞭に聞こえながらも、つながっている状態、これが狭義のレガートです。
内視鏡観察によると、レガートのない歌唱では声帯と披裂部が頻繁に開閉を繰り返す一方、レガートの巧みな歌手の声帯は常に閉鎖した状態を保ちます。これは、レガート歌唱では声帯が最小限の変化で済むのに対し、レガートのない歌唱では一音一音を区切って発声し直す必要があることを示しています。
しかし、ただ声帯レベルで単に音を切らずに繋げるだけでは、不随意的フィードバック反射を安定させるのに十分ではありません。上述したような、呼気・姿勢・口腔内操作によって、声帯の自励運動を最適化するような気流を生み出すことを、1音1音行うばかりか、トランジョンの部分でこそ行い、安定状態をフレーズの間は維持させなければなりません。私たちは、それこそが真のレガートと考えています。
すなわち、単音の発声と歌詞と音程を覚えることが歌唱練習ではありません。楽曲の中の一音一音およびそれらをつなぐ一つ一つのトランジョンで、最適な呼気と姿勢、口腔内操作を決定し、それを訓練によって自動化していくことなのです。
PVIの状態は、過度の固有感覚ノイズを反復することによって、感覚フィードバックの中枢に何らかのバグを生じ、不調に陥っている状態だと思われます。しかしその状態からでも、適切な気道状態を整えて固有感覚を正常化すれば、その適切なフィードバックを継続することで中枢のバグは解消すると考えられます。末梢からの刺激によって中枢の不調が改善することを求心性神経調節と言いますが、発声調節においてもその原理が働き得ると私たちは考えています。
まとめますと、PVIの症状を軽減させるボイストレーニングの作用機序は、構音動作を伴うことで乱れがちな声門下・声門上の気流コントロールを最適化し、 声帯自励運動を安定化させることで、内喉頭筋の筋紡錘からの固有感覚ノイズを減少させ、求心性神経調節を介して発声中枢の機能を整え、γループを安定させることであると言えるでしょう。(下図)
「わかる」だけではなく「できる」へ
当サイトでは、発声とその障害を理解するための基礎として、現在知りうる限りの情報をお伝えしていますが、発声調節の安定が不随意調節をベースとしている以上、発声のメカニズムを「わかる」だけでなく、反復練習によって身体が自動的に「できる」状態に落とし込まないと意味がありません。知識を得ることがトレーニングではなく、自ら体をつかってトレーニングして身体動作を自動化しないと意味がないのです。随意動作で細かい調節が可能な四肢の運動であるスポーツ以上に、歌唱発声においてはトレーニングが必要であると言えるのかもしれません。

Akasaka Voice Lab.による、もっとやさしい説明